【”発達障害は治る”論争について】当事者がそれぞれの気持ちを考えてみた。その理由は?
こんにちは!ファー・ロビンちぢめてファビンです!
クリスです!
“発達障害は治る”
というツイートが少し前から波紋を呼んでいる。
今の時点で、筆者は海外の発達障害についての論文や常識について知識が弱いので、今回は日本限定で書かせていただきます。
今、『発達障害は“治る”or“治らない”』という論争が巻き起こっている。
そもそも
なぜこの様な議論が起こるかというと
“発達障害は脳機能の不具合により起こるもので根本的な治療は不可能”
というのが現代の大半の意見だからだ。
さらに
“治らない派”の方々→発達障害の当事者
“治療可能派”の方々→身近に当事者をもつ人(息子がASD持ちの方など)
が多いということから
周囲の人々が当事者に“治るんだ!!”という願望を押し付けているのではないか
という声が後を絶たない。
この論争はこれだけには留まらず
“発達障害は治る”と主張する本を数多く世に出している
とある出版社、およびその社長に「インチキだ!」という批判が集まっている。
両者の気持ちを(当事者が)考えてみた。
今回の件で一番やっかいなのは
なによりも気持ちが介入・先行してしまうことだ。
そうなっちゃうのは痛いくらいわかるなあ…
“治らない派”(主に当事者)
当事者は、そもそも死に物狂いで自分を保っている。
『周りの人が簡単にやっていることを、なぜ、自分はこんなにもできないんだ』と
半生を悩み苦しみ悶えながらぎりぎりで生き抜き、
そして辿り着いた回答が
『自分は発達障害者であった』という結論だ。
そしてそれは
『治療うんぬんの問題ではなく、個々人の特性であり、根本からの解決は不可能』と
知らされた。
それでも、自分の特性を知ろうと悩み、治すことはできなくても問題を、悩み事を減らそうともがき、生きている。
そんな時
どこのだれかも知らないよくわからないヤツが
「発達障害は治そう!うちの子にもこれやってるの!絶対治してやるわ!」
と言っていたら
「当事者の気も知らず簡単にテキトーなこと言うな!」
「発達障害があったらその子を愛せないのか!
(=発達障害があったら自分は誰にも愛してもらえないのか)」
という気持ちになってもそれは自然だ。
“治る派”(主に当事者周囲の人)
その一方、
当事者周囲の人も、相手が大切な人であれば
その治療法があるという可能性を信じたくなるし、
当事者のフォローをして(くれて)いるのは善意以外の何物でもなく、
当然、負担(勿論人それぞれだが大抵の場合とても大きい)がかかっているので
それを解消したいのは当然だ。
やっぱ、周りの人に迷惑かけたり、ゆるして、助けてもらって生きているのを僕らは忘れちゃダメなんだよな。
でも気にしすぎも絶対よくないから、それは忘れないでね。
もちろん“治る・治らない派”と“当事者・周囲の人”の組み合わせは
この限りではないとは思う。
が
今問題になっていること、収まらない理由になっている両者の気持ちは
乱暴にまとめるとこの様になっている。
これ以外の意見、心境があれば是非聞かせてほしいです!Twitterでもコメントでもなんでも!
反対意見もめっちゃくちゃあるだろうね!
この論争に対する具体的な答えは
次回!
気持ちの面ではなく理論的に
- 治療可能なのか?
- そもそも『障害』ってなんだろう?『治る』ってなんだろう?
ということを僕なりに考察したいと思います。
一回がっつり考えてみよ!
客観的にね!
ありがとうございました!
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